昭和3年生まれだった父は正真正銘の昭和の父で、
父がいる時の家の空気は父の機嫌の良し悪しと正比例。
そして、なのか、でもなのか、変な組み合わせなのだけれど、
受験の願書や就職する時の履歴書の「尊敬する人」という欄に、
私は「ヘレンケラー、父」と書いていました。
昭和62年の今日、父は肺気腫で亡くなりました。
母が父と知り合った頃、父は結構かっこよかったみたいです。
でも私が物心ついてからはとても太っていて、晩年は痩せました。
そして今仏壇の父は若返り我らが知らぬ凛々しき頃の
忙しぶるってほんと、みっともないと思うのです。が、
加藤先生大丈夫?と非常勤の先生が心配してくださっていたという話を、
さっき、風の噂に聞き、ああ、そう見えちゃってるなと思っている今です。
(先生方、ありがとうございます!)
今、日本語学校の授業もしているんですが、これがもうものすごく楽しくて、
でも日本語の先生って、授業の前後、特に前の準備がものすごく大変で、
その他あちこちの諸々の仕事の中での優先順位をちゃんとつけなくてはなと
思ってもいる今です。あと、何でもかんでも引き受けないとか。
無理と無茶話題にしません金輪際心に誓う二月吉日
決意です^^;
写真は、いろんな年の楽しかった今日、2月5日。
・2017年:ヒューストン、豆まき、タイ
・2019年:久留米の餃子
この間「今日は決断力があまりありません」(→この間)
と言った私の時計の今回は、
「このApple Watchではそのお手伝いはできません」。
一体私は何を頼んだのだったか。
いや、私が誰かに言ったのかもしれない言葉を、
すかさずキャッチして答えた。のだと思う。
腕首の愛おしくさえ思う君多忙の手伝い我もかなわず
雪予報おろおろばかりの関東びとを鼻で笑へり雪国びとは
昨日から、明日は雪だ雪だとテレビで言っていたけれど、
全然雪ではありませんでした。写真は去年の2月5日。
今日は、月に一度の実家の母との本駒込にある鍼灸院の日で、
それで天気のことを気にしていました。
母と二人でかかって、妹と合流してお昼を一緒に食べます。
節分。は明日。
実は間違えて、さっき、福は内鬼は外と二言三言呟きながら
豆を食べてしまいました。家内安全、商売繁昌。心より。
※追記
節分、今日で正しかったみたいです。→こちら
スリーエーネットワークの「Ja-Net」。
その巻頭寄稿、松岡和美先生の「日本手話ってどんな言語?」
の真ん中あたりに大きな文字で書かれているのがこれです。
「目で見ようと耳で聞こうと言語であることは変わらない」
先週の土曜日に今年度の最終回を迎えた、
「生活者としての外国人」に対する日本語教師初任研修。
今年度の受講生50人のうち4人が、聾者の日本語の先生でした。
一方的な講義ではなく、グループに分かれての活動もたくさんある、
完全オンラインでの研修に問題なく入っていただけるだろうかと、
運営委員の皆さんはとてもとても心配していました。
が、写真左上の「日本手話」と表示された手話通訳の方々、
各回の講座担当の講師の先生たち、4人の受講生、所属する機関、
他の受講生たち、運営委員たちが、
当たり前に進めてくださったおかげで無事終了。
2月25日(土)の午後、オンラインでの研修報告会があります。
よかったら覗いてみてください。改めてお知らせがあると思います。
手で話す人々描く物語言葉教ふる人が訳せり
『きらめく拍手の音』イギル・ボラ 著 矢澤浩子 訳
訳者の矢澤さんは、インターカルトの元先生、
誇るべき私の教え子、共に韓国のビジネスマン向け研修をした人。
腹立てて啖呵を切りて始まりしインドネシアと私の人生
久しぶりの新宿サザンテラス。
日振協が代々木にあった頃、よく通った道です。
今日は一日中外で仕事で、終わってからここ、
久しぶりの下川原さん。
33年前の1992年、インターカルトジャカルタ校での
単身赴任時代、そこにいたことがきっかけで、
たくさんの人たちとつながりました。
その方たちの今。
日本語教育の試験、技能実習生送り出し、劇団、
日系企業の幹部、漫画家、落語家、ドイツで社長、
司会者、フリーアナウンサー、声楽家、指揮者。
そして下川原さんは今、
インターカルトもお世話になっている社労士さん。
ひょんなことから腹を立て、それがきっかけで、
「私が行きます」と手を挙げて行ったインドネシア。
そこで「学校をする」とか「営業をする」経験を
しなかったら、そのまま日本語の先生だけしていたら、
今の自分はなかったと思います。
おまけ。帰国間際の私のクラス。