OECDからの報告でも、5人のパネリストの発言でも、
当たり前に「語学学校」「日本語教育」という言葉連発。
私たちは何ができているのか、どこの誰と何をすべきなのか、
・・・頭を巡らせながら。
ハイブリッド開催。会場に行って参加しました。
旧知の人々含め、多方面、多分野の方々で会場はいっぱい。
帰りの内幸町あたり。
本来の私にとって、とてもとても有意義な時間でした。
今、この新幹線に乗っています。新山口→東京。
私は、新幹線の速度は250キロだと思っているのですが、
それは幼い頃に開通した新幹線のことを歌った
童謡の歌詞の記憶から。
♪ ビュワーンビュワーン走る 青い光の超特急
♪ 時速250キロ 飛んでくようだな走る
今日の新山口や度々行く福島の郡山など、
通過する新幹線が多い駅のホームに立っていると、
目の前を通り過ぎる新幹線が、
まさに「飛んでくようだな」で、本気で怖いです。
調べたら、今の新幹線は最高時速320キロなのだとか。
技術の進化。速い。
が、一般のジェット旅客機の速度は900キロだそうだから、
まだ「飛んでく」とは言えない。
まあ、飛んだら新幹線ではなく飛行機だ。
ところで。
「⚪︎⚪︎語ができる」ってどういうこと?
日本語教師のこれからの役割を探る
山口県立大学の日本語教師養成課程の授業に
お招きいただいての、今回の出張でした。
車中、お疲れ様の缶ビールを飲みながら、
授業終了時に提出された、
27枚の「学習の記録」のコピーを読みました。
みんな、きれいな文字でびっしり書いてくれています。
はい、と手を挙げて発言や質問はしないけど
実はちゃんと理解して考えてる。
うちの外国人の学生たち、
社会経験を経た日本人の養成講座の受講生たちは、
まあよく喋る。その違いがおかしい。
今日の学生さんたちには、
臆せず、なんにでもチャレンジして、
ぶっ飛んで行ってほしいなと思います。
速度はまあ何キロでも。本気を出せば何でもできる。
日本語教育を学んだ大学生が、
日本語教師を「職業」として選ぶ時代になることを、
心から願っています。
法律、その方向に向かってできたのだと思い、
信じています。
・・・さっき名古屋を通過。あと少し。
今週も整理しきれないほど色々あった一週間でした。
さっき、実家の母からきた庭のチューリップとむらさきつゆくさの写真。
私もさっき、ベランダでこの間買ったイチゴの植え替えをしたのだけれど、
その移植写真に生来の雑さがはっきり写っていたため、掲載NG^^;
ところで今週は、初めて委嘱された中央教育審議会生涯学習分科会。
重点事項として、
1.社会人のリカレント
2.障害者の生涯学習
3.外国人の日本語の学習
4.社会教育人材 が挙げられていました。
3のために自分はいるのだろうなと思うのですが、1も4も。
特に1のリカレント教育は、今、私たちがしている日本語教員の養成。
そこで学ぶ人は様々なバックグラウンドを持つ多様な人々なのだけれど、
「生涯学び続ける社会の実現及びすべての人のウェルビーイングを目指す」
というところが、まさにです。
入門編である養成講座の次の段階の初任研修では、
今年度も文化庁の「生活者としての外国人のための日本語教員初任研修」
を受託しました。
それに、企画運営者として初年の15年前から携わっている谷口が、
先期に引き続き台東区の多文化共生委員に委嘱されています^^v
リカレントとリスキリングについては、こちらにも書いたのでよかったら。
久しぶりの代々木オリンピック記念青少年センター。
久しぶりの対面での日振協トップセミナー。
久しぶりに全国の日本語学校経営者が一堂に会した今日。
懐かしい顔、新しい顔。そして、
いつの間にか古い顔になったんだと認識した自分の顔。
日振協の研修会やセミナー、集まりといったらほとんどここ。
初めて来た頃は、日本語学校業界ではまさに駆け出しで、
自分はここに育ててもらったんだなぁと、少々感傷的に、
(その前にあった他の会議のために)大遅刻して着いたくせに、
ぷらぷら写真を撮りながら、会場の国際交流棟まで。
2019年制定の日本語教育推進法に書かれた二つのこと、
①「日本語教育に従事する者の能力及び資質の向上」だけでなく、
②「処遇の改善」ができるだけの学校の経営面での安定と充実を
実現するためには業界としての力が必要です。
懇親会を終えての、帰りの参宮橋駅。
木彫化されていました。柱の木目と文字が美しく素敵。
2020年にだそうです。やっぱり久しぶりに来たのだと再認識。
2日目の明日は9時スタート、遅刻しないで行かなければ。
この間書いたように耳の具合が良くないのでイヤホンをするのを控えています。
イヤホンしないと、例えば電車の中で周りの人が喋る余計な話が聞こえてくる。
それを聞きたくないから、いつもイヤホンで耳を塞いできたのかも。
でも、イヤホンしていなかったさっき、東京駅に向かう電車の中で、
私の背後にいたおそらく大学生男女の会話。アルバイトの時給について。
女性のお母さんは税理士。
年に一回、一日だけ義務で行かなくちゃいけない仕事があるらしい。
その時給が3,500円なんだとか。一日の収入を計算。
すごいね、俺もそれやりたい。そうだよね私もと盛り上がった後、
女性、でもこれ、資格なくちゃできないんだよね。男性、ああ、そうなんだぁ。
やっと気づいたか。そこまで聞いてイヤホンつけました。
資格ってそういう、価値のあるものです。
行き先は函館ですが、この新幹線、仙台で降ります。
仙台で資格の研修会。
大学の連携事業ですが、福島サテライトにご連絡いただいたので、郡山の佐藤さんと参加します。
できた資格をどう育て活用していくか、それも私たちの仕事だと思います。
でもその前に、この資格の価値を自分自身が再度ちゃんと認識して自信を持って臨みたい。
この法律の施行、2ヶ月後の4月1日です。
去年の暮れ、12月28日に公開された、
「日本語教育の適正かつ確実な実施を図るための日本語教育機関の
認定等に関する法律」の施行についての「説明会」のお知らせと、
①日本語学校、②養成講座、③日本語教師、申請の「手引き」。
(説明会)
ここに、それぞれの日程と参加申込締切日があります。
(手引き)
①認定日本語教育機関の認定申請等の手引き
②登録実践研修機関及び登録日本語教員養成機関の登録申請等の手引き
③登録日本語教員の登録申請の手引き
まずよく読んで、それから説明会に臨むというのがいいと思います。
私もラインマーカー引いて、付箋貼って、読解してます。
学校が①②、個人は③、それらすべてをしなければならないので。
なかなかに難解で、さらに、そうなの!?というような箇所もありで、
往生したり、時にむっとする気持ちはわかるのですが、
まずは冷静にじっくり読んで理解いたしましょう。
我慢ならなくて、文科省や法務省や内閣府に問い合わせたんですけど
よくわからないんです、という個人の方、既存校の方、そして、
これから学校を作ろうと思っているという方などなど、
なぜだか私たちの学校に電話やメールをくださるんですが、
まずは読んで説明会に! よろしくお願いします。
(写真:「資料」で検索したら引っかかった私のフォルダの1枚)
水戸黄門が「朝日の立ち昇る様は領内随一」と言ったことから
名付けられたという茨城県の日立に行きました。
ガラス張りの駅舎。薄曇りの向こうに海がありました。
松浦校長先生が、私のことを師匠の師匠と呼んでくれる理由は、
新人での着任校で教えを乞うたのが、今、ヒューストンで活躍の
井上とも子さんで、その井上さんをインターカルトの養成講座で
教えたというかなんというかなのが私、という縁からです。
松浦先生自慢の学生たち、先生たち、事務の人たちががいる、
日立さくら日本語学校は、まさに松浦先生。
それぞれがそれぞれを大好きで、大事に思っているというのが、
ふぁあっと伝わってきました。これ、すごく大事。
「いつでも夢を」の作曲家、吉田正さんの音楽記念館で、
海を眺めながら、今までのこと、これからのことをあれやこれやと。
星よりひそかに、雨よりやさしく〜♪
往復3時間、滞在3時間半、特急ひたちに飛び乗ってのとんぼ返り。
時間の濃さは時間の長さじゃないのですよ…。
去年、日本語教師養成講座/久留米サテライトで教育実習を受け、
今、日本語教師として活躍しているお二人。
タイのサテライト校、Jセンターの先生になった中野さんと、
実習校の久留米ゼミナールに採用されて日本語を教える栁さん。
「これからの日本語教師の可能性と展望〜令和6年4月、国家資格〜」
と題されたセミナーで、それぞれの“今”を話してくださいました。
日本語の先生としてだけでなくタイ中に日本と日本語を広める活動。
長年続けた仕事の後の新たな人生での選択。そこからさらに描く夢。
人生30年と、×2の人生の転機で日本語教師を選んだお二人の話は、
私が、インターカルト日本語学校のスピーチ大会や、
温泉での一泊旅行の大宴会場にずらっと並ぶ学生たちを見ながら
毎年毎年抱く、この仕事をしてよかったと思うのと同じ気持ち。
これからの日本語教師はやりがいだけではダメ。日本語教師を、
仕事ではなく職業に。と、タイの中野さん×2+αの私は、強く。
そのために目指すのは、オンリーワンのレアな人材になること、
そういう人材を育てること。令和6年から日本語教師が国家資格に。
オンリーワンのレア度の高い日本語教師を養成していかなくちゃと。
12月とは思えない暖かさ、の日本列島。堂々の20℃超え。
北半球のクリスマスには似合わない。
法律施行後に行われる新たな日本語教員試験の施行試験が、
12月10日、ここ福岡でも。
昨日は、久しぶりにアジア学生文化協会(ABK)に行きました。
現理事長の白石さんに「福田ドクトリン、見たっけ?」と促され、
???のまま行ったら、これがありました。
石碑に白石さんと自分の姿を映して、畏れ多い記念撮影。
福田ドクトリン。
1977年8月に当時の福田赳夫内閣総理大臣が東南アジア歴訪の際に、
フィリピン・マニラで表明した東南アジア外交3原則。
一.日本は軍事大国とならず、世界の平和と繁栄に貢献すること
二.心と心の触れ合う信頼関係を構築すること
三.日本はASEANと対等なパートナーとしてASEAN諸国の平和と発展に
寄与すること
どうしてこれがABKにあるかということも含め、その他詳しいことは、
ABK刊行の『アジアの友』のこちらにあります。
2007年に、協会の創立50周年記念式典にお呼ばれしたとき、
東南アジア中の国を代表する方たちが一堂に会しているのを見て、
いやぁ、これは歴史の歴史が違うと思ったのでした。
そんな畏れ多いところが、いつしかABKと呼ばれるようになった
のですが(それまでは、アジ文(あじぶん)と皆さん呼んでました)、
その後AKB48が世に出てきたとき、前理事長の今は亡き小木曽先生が、
「うちの平均年齢は48よりもっと高いよ」と。
ABKとAKB、いろいろが違って可笑しかったことも歴史になりました。
白石さんとは、私が30そこそこの駆け出しの頃に、
青山スクールの今は亡き中西郁夫校長先生に引っ張られて、
一緒に共同研究のデータ整理と原稿書きをした仲なのだけれど、
それも今は昔、
揃ってお粥のランチを食べました。そんな年頃に^^;