台風接近の日曜日の今日も、
モヤモヤさま〜ず「ローマ編」を見ながら律儀に更新。
これはもう習慣です。
写真、ネタ作りに…といただいたお菓子三つと、
配給元の旧姓ちばさん母子(左下)。Terima kasih!
ところで、「ネタ」って「種(タネ)」の倒語なんですね。
(と今頃言ったら笑われるのか、どうなのか。)
ほかに、宿(やど)→どや、場所(ばしょ)→しょば、
旨い(うまい)→まいう、調子いい→C調…などなど。。
ここずっと、あっちこっち出ずっぱりで、
さすがに疲れたので、今日は予定を変えて休養。
しかし、これのせっちょうしてて結局休めず。
せっちょうって方言だと思うのですが、
こういうどうでもよいことに没頭することを
せっちょうと言うような気がします。
人のせっちょうしてないで自分のことしなさい、とか。
本来の意味は、
「《「せっしょう(殺生)」の音変化か。
「折檻打擲(せっかんちょうちゃく)」の略とも》
責め苛(さいな)むこと。こき使うこと。」goo辞書
けれど、うちの方では、
「世話」という意味だと、同じくgoo辞書に群馬の方言として。
「また余計なせっちょう焼いて困るよ」
(栃木県足利市ですが、言語圏は群馬県)
なんであれ、こういう好きなことは全然疲れないのですよね。
new iPhone、よきストレス解消ツール。
食い合わせは、食べ合わせとも。
29日が「土用の丑(どようのうし)の日」で、
テレビでウナギの話をあんまりするものだから、
買ったのはいいのだけれど、一緒にスイカも買ってしまい…。
ウナギとスイカ、食い合わせが悪いのでしたよね。
→こちら。迷信らしいですが。でもね。
「食い合わせ」の「〜合わせ」で思い出したのが「目線合わせ」。
今とても懇意にしてくださっている会社の方が頻繁に使います。
「目線合わせをさせてください」というように。
文脈から、基準を合わせる…という意味だとわかります。
が、使用語彙ではありませんでした、理解語彙。
しかししかし、目線合わせ、
食い合わせを考える以上に必要なことですよね、
いや、ほんとにとっても重要。
何か共にするとき、基準や価値観や考え方を合わせること…と今。
「エバンジェリスト」の続編です。
昨日、リンクをはった先の説明によると、“evangelist”は、
「(キリスト教の)伝道者」という意味で、何かを啓蒙する役割。
昨日、新しい名刺をくださった女性はIT業界の人で、
「難解技術を分かりやすく伝導する」という、
上のリンク先の説明そのままの“説明上手”で、なるほど〜と。
今日の陽気は、ほとんど夏。
写真は、日本語教育学会のために朝から行った、
八王子の大学です。八王子もこの大学も広大でした。。
話を戻して新しい言葉、とりわけカタカナ語、
日本語で表せないものかと思いますが、
たとえばIT業界の言葉、そのIT自体が新しいわけで、
そこで役割を果たす人の仕事もまた今までにはなかったもの。
そうすると、必然的に元々ある日本語に置き換えるってことは
無理なのだなあと、炎天下を歩きながら…。
特にカタカナ語。
その使われ方から何となく意味を理解し、
少し慣れてきたら自分でも使ってみて、
でも、何て意味?と聞かれても一言では答えられない。
コンソーシアム(Consortium)という言葉もそうでした。
最近では、いくつかの機関の人たちと共に自分が関わっている
プロジェクト、それも勝手にコンソーシアムと呼んでしまったり。
意味や使われ方はなんであれ、
コンソーシアムでもプロジェクトでもグループでも何でも、
人と一緒に何かを成し遂げるって、とても大変なこと…ですよね。
(いろんなことに首を突っ込んでいると、そりゃあ色々ある。)
写真、これを見たら、ふっと初心にかえれるような気がして、
この間、出発前の羽田空港で買いました。
「シャワーを浴びる」と「お風呂に入る」。
体の汚れをとってきれいにしたいのか、
リラックスして疲れもとりたいのか…という違いか。
「温泉に入る、浸かる、浸る」。
これは、お風呂の効能プラス、病気の治療にも。
それに何たって広くて気持ちがいい。
先日来日した劇団en塾のインドネシア人学生(男子)。
福島で泊まった旅館の温泉、皆で露天風呂に浸かるの図。
インドネシアでは、シャワーでもお風呂でもなく、
「マンディ」。これは水浴び、体に水をかける、です。
その彼らがすごく良かったと言っていた温泉。
経験以上に何がどのように良かったのか、聞けばよかった。
さて、コートなしで過ごせた昨日の暖かさはどこへやら、
突然冬に舞い戻ったように寒かった今日などは、
リラックスするだけでなく、体を温めるためにもお風呂。
温泉だったら、きっとなおいいのでしょうねえ。
今日は、惜しまれて辞めて行く人と会いました。ん?
辞めて行くのは学校のWEBのサポートをお願いしている
会社の人で、惜しんだのは…私たちです。
本気で惜しまれて辞めて行く人って、そうはいないと思います。
おべんちゃらや、社交辞令でではなく。
「書く」とか「読む」とか、それは一人でもできるけれど、
一人ではできない、二人以上の登場人物が必要な動詞、
たとえば、「結婚する」とか「けんかする」とか「議論する」とか。
「惜しまれる」も必ず、惜しむ人と、惜しまれる人。※受身形だから。
惜しまれたいと望んで、惜しんでもらえるというものでもない。
何がそんなに私たちを惜しませたか。それは、まあ、ここでは。
でも、どんなに惜しんでも、
自分で見つけて決めた道を進むなら、それは仕方がない。
いや、それがあるべき生き方と明るく送り出しました。
がんばれ!31才。男。Mr.I。
今日の午前中は、文化庁の日本語教育小委員会。
終わって学校に戻ったら、お餅つき。
午前の部は終了、午後の部間もなく開始というところでした。
ついたお餅でお汁粉。つきたては、つきたてだけのことはある。
さて。昨日書いた、
「かっとして」と「がっと言って」と、さらに「がしがし」について。
すべて、語頭が「か(が)」でした。音の印象ってありますよね。
「か行」の言葉(擬態語)、何となくとんがった感じ、しません?
・・・で、加藤も「か行」だなぁと。
さらに、はたと。私の前の名字の最初は「お」だったなぁと。
確かに昔はもう少しおっとり、おだやかだった、・・・と思うのです。
私は、社会に出て一年後に「か」になりました。
社会の中で揉まれたら、まあ、「お」ばかりではいられませんよね。
以上、二日続けて自分のどうでもいいことで恐縮です。
でも、「か」である正当性を少し。