豚キムチうどんとか、冷やし中華大盛りとか、
対局中に藤井四段が出前を頼んだというみろく庵の…、
近くのレストランで、気の置けない仕事のパートナーと、
飲み < 食い < 喋り。
今日は土用の丑の日だったのですねー。
毎夜毎夜、年末のようなスケジュールで…鰻、失念。
喋って喋って喋って、充実のひと時の、まだ火曜日٩( ᐛ )و
◎文中「気が置けない」は「気を遣う必要がない」という意味。
間違った使い方をしないよう注意〜!
豚キムチうどんとか、冷やし中華大盛りとか、
対局中に藤井四段が出前を頼んだというみろく庵の…、
近くのレストランで、気の置けない仕事のパートナーと、
飲み < 食い < 喋り。
今日は土用の丑の日だったのですねー。
毎夜毎夜、年末のようなスケジュールで…鰻、失念。
喋って喋って喋って、充実のひと時の、まだ火曜日٩( ᐛ )و
◎文中「気が置けない」は「気を遣う必要がない」という意味。
間違った使い方をしないよう注意〜!
マレーシアの人はすごいです。
今日会ったリャンさんの知り合いたちは、話す相手によって、
英語、マレー語、北京語、広東語、客家語、福建語を
使い分ける。リャンさんはさらに一つ、私に向かって話す日本語。
日本語しかない日本人にとっては、とても不思議な光景。
午前中お邪魔した高校はムスリムの学校なので、
皆さんの公用語はマレー語、私たちに対しては英語でした。
そこで日本語の授業を見学。
国際交流基金の北浦和での教師研修を受けたという、
メリッサ先生の授業はテンポよく明るく楽しく、
1クラス30人全員が一体化していたのは先生の手腕ですねー。
ところでマレー語とインドネシア語、
兄弟言語でかなりの部分が同じだけれど、微妙にちと違う。
でもコタキナバルがあるボルネオ島は、
マレーシアとインドネシアが半分半分、地続きなので、
コタキナバルで使われるマレー語はインドネシア語に近いのだと
校長先生がおっしゃっていました。
なので、私の(N5レベルの)インドネシア語もすんなり通じました^^
昔々インターカルトのクラスにいたマレーシアの女の子が、
子供の頃からいろんな言葉をまぜこぜに喋っているから、
どの言葉もちゃんと正確には喋れないのだと言っていたけれど、
どうなのだろう。
正確であることと、たくさんの言葉を使って人と意思を通じ合えること。
今日のコタキナバルの海。日が沈むずっと前もベスト10に入れたいなと…。
朝、お化粧したりごはんを食べたりしながら、
NHKのいろんな語学の講座を見ます。
まさに手も足も出ない、右から左へと書くアラビア語、
春からまた第1回に戻って文字の構成の説明を聞いたら、
当然のことながら、ちゃんとルールがあることがわかり、
読めないのだけれど、読めるような気が…。
今朝は、アラビア語には女性名詞と男性名詞があり、
単数形、複数形に加えて、2つ揃ったものを表す時には
双数形という特別な形をとることを知りました。
2日とか2台とか両親とかを表す時に語尾変化あり。
言語を教える時、
学ぶ人の母語が、学ぶ言語と決定的に違うところはどこなのか、
学ぶ時に決定的に難しいと感じるのは何なのか、
反対に、全く問題なくできることは何なのか。知る必要あり。
そうしたら教える方も習う方も確実に効率的なはず…と改めて。
(何を今さらですが。)
諸事情により、今朝、七草粥…のようなもの。
七、7、なな、しち。
他の数字より、登場回数多いですよね。
ラッキー7、七福神、一週間=7日、北斗七星、
七人の侍、ウルトラマンセブン、白雪姫と7人の小人、
七不思議、親の七光り、7音=ドレミファソラシ、
七転び八起き、セブンスター、女性セブン、
セブンイレブン、七味唐辛子、
人間は短期記憶として7個のことを覚えられる。
冬〜って感じの寒さですね。
午後2時ごろの空。水墨画のようでした。冷えてます。
世は三連休ですけれど、インターカルトは明日出勤日。
1月生の一斉来日日なのですが、明日の気温は7℃。
暑い国から来る学生たちは…ねえ。どうしましょうねえ。
いちごを潰して、お砂糖と牛乳をかけて食べたくなり…。
昔、日光いちご(って栃木県民のみ知る?)の時代の食べ方。
今、とちおとめ(は知ってますね?みんな)の時代は、
どこのも十分甘いから、こんな食べ方はもうしないのかも。
でも、かつてはいちごの正しい食べ方…でしたよね?
スプーン、隠れてしまっているけれど、いちご用のです。
潰しやすいようにいちごのタネの模様状に平らになっている、
と書いて、この、柄(え)じゃないところの名称わからず。
調べました。「つぼ」でした。
先端のとがった部分は「先(さき)」、
くぼんで液体などをためることができる部分は「つぼ」、
柄の部分はそのまま「柄」、
柄の端っこの部分は「柄尻(えじり)」…だそうです。
利口になった。
で、このスプーン、今でも売っているんですね。→ここ。
本日、土曜日。
ジャカルタからの来年1月新入生たちのオリエンテーションを、
現地事務所と東京の学校をオンラインでつないでしました。
スマホはどこで?風邪を引いたら?スーパーはどこに?
果ては、来年夏の一泊旅行のスケジュールは?まで質問いろいろ。
楽しみですよねー。
オリエンテーションは、
新しい環境への適応・順応のための云々…の意味で使っていますが、
『大辞林』を見ると、
「自己と新しい環境および過去との関係を正しく認識する精神作用
見当識。所在識。自己の位置づけ。」
という難しい一文。
普段使いの意味と大きく言えば同一線上だけれど、
過去との関係、自己の位置付け…なぜだか深く心に沁みました。
なんであれ、各国からの新入生の皆さん、お待ちしてますね。
言葉には、大人の言葉と子供の言葉があって、子供の頃、
「疲れた」は大人の言葉、「くたびれた」が子供の言葉だと思っていました。
小学校2年生くらいの時、遠足の日に友達の家に遊びに行ったら、
「疲れたから寝てる」と言われ、まずは遠足で疲れてしまうこと、
そして、小学生なのに「疲れた」と言ったことに驚いたなあと思い出しました。
齟齬(そご)とか、乖離(かいり)といった言葉は、完全に大人の言葉です。
どうして今日、こんなことを思い出したかと言うと、乖離。
弾丸出張から帰ってきて、我が気力と体力の乖離をひしひしと感じたから。
気力はまだまだ有り余るほどあるんですけどね。
これ、ベトナムのレストランにいた(あった)、鶏というかチキン。
こういう姿を見るといつも、彼/彼女の思いはどうだったんだろう、
齟齬というのか乖離というのかわからないけれど、
この姿、望んでいなかっただろうにな…と切なくなります。
そして、話は戻りますが、私は己の気力と体力の乖離に切なくなってます。
1987年、日本語教師養成講座の文法初日、
「見れるとか、食べれるという言葉を使う人、手を挙げて」
と文法担当のS先生が私たちに問いかけた時、
(※見られるとか、食べられるではなく…という意味です)
私は「なに!?」とあやうく声をあげそうに。
曲がりなりにも日本語教師を目指す者が、
ら抜き言葉など使うはずないだろ。
しかし、何人かがぱらぱらと挙手するのを見て、
ひっくり返りそうに。あり得ん。
後に、S先生曰く「あの時の加藤さん、物凄く怖い顔していた」。
「「ら抜き」初の多数派」という文化庁発の記事。
もちろん私も大人になって、というか、
言葉は生きている、だから時代時代で変わってゆくものなのだ、
ということが理解できるようになったのだけれど、
でもね、やっぱり。
蓮の花托のプレート、ホテルの部屋のトイレのです。
「蓮は泥より出でて泥に染まらず」なのだそうです。
こういう正義感あるぞ!みたいな生き方、好きです。
30年近くたっても、相変わらず憤慨したりお節介を焼いたり。
今、ホーチミンの空港。クアラルンプールに向かう飛行機を待ってます。