昨日一昨日と夜中の更新に難儀したので、今日は明るいうちに。
写真は、ここのところのマイブーム、沖縄。
今年の3月に、文化庁日本語教師研修普及事業の生活者初任研修の、
那覇でのセミナーに行って、ちょっと滞在を延ばしたときの。
部屋から見える海に向かって座り、パソコン開いて仕事してました。
いやいや、できるのですよね、私みたいな仕事だと。
今日はもちろん沖縄ではなく、家にいるのだけれど、
涼しい部屋の中で音楽聴きながら読書、と、私らしくない時間。
でも、あちこちの人とLINEしながらだから、ま、私らしいか。
板書するとき、なぜそこにそれを書くか、理由がなければならない。
学期ごとのクラスの教師のシフト表を作るとき、
どうしてそのクラスにその教師を置くか、理念がなければならない。
読解のテスト問題は、答えを出すためのただの問題じゃいけない。
それを受けた学生がその文から得る、感動がなければいけない。
こういう面倒くさい論理をかざしながら今日まできたかなと……。
最後のは特に、文章に対する思い入れが、私自身ことのほか強いから。
でも冷静に考えると、本当は他にも突き詰めなければならないことが
あるのに、自分が不得意ゆえに、興味がないゆえに、
ないがしろにしてこなかったか。それ、ないわけないですね。
「論理的」であるということは、第三者を説得し納得させ得ること、
そして、他者と関係を作りながらそれを共有できたら、
それが論理的であったという唯一の根拠になる、と、
これ、書いてあったことの私の意訳ですが。
そういうことが書いてある本を読んでいたら、
板書と、シフト表と、読解のテスト問題の文章について、
自分が言ってきたことが蘇ってきました。
今、かかっている曲、渡辺真知子の「かもめが跳んだ日」。
大学1年のとき休講の教室に友達といたら、コンサート行かない?と、
知らない2人組に声かけられて、横浜まで行って聴いた懐かしい曲。
年とるって、思い出が増えること。……いいですね。
上に書いた本のことは、読み終わったらまた書きます。