今朝の日経新聞の一面に、
「人口、2053年に1億人割れ」という大見出し。
2053年といったら36年後、下手したら生きているではないですか。
財務省のホームページに、こんな図解が。
65才以上の高齢者1人を20〜64才の人が何人で支えるか。
1965年は「胴上げ型」で、9.1人で支えていたそうです。それが、
2012年、ほぼ今は「騎馬戦型」で、2.4人で支えている? そして、
2050年になると「肩車型」、なんと1人を1.2人で!になるのだそうな。
下手すると90を超えた私も、誰か1人に肩車されるということですね。
高齢化社会と労働力不足、もちろん大きな関係があります。
でも、労働力の労働って?…と少し考えてしまいます。
自動化、IT化、そして今、AI(人工知能)。
それらの出現によって消える人間の仕事がある。(と今日の記事にも。)
今ある仕事の相当量が、10年後、20年後にはなくなるって言いますよね。
もちろん、ゆえに生まれる仕事も。けれど「消える>生まれる」なのでは?
そうすると、単純に今の労働量を基準に考えるのはどんなもんだろう?
…とまあ、色々考えることがあるなあと思いながら、
明日から始まる新学期の準備を見ていると、ほら、やっぱりと。
今学期から、窓口で支払いするものの一連の操作をiPadに入れたアプリで。
そしてそれが学校のシステムとネットでつながり、とにかく便利になるらしい。
授業料はすでにF社グローバル決済代行サービスを導入済みでとても便利に。
さらに、これ、何やら写真屋さんのようなカメラとコンピューター。
三人で実験中でした。
何であれ、便利になりました。便利とは、すなわち省力ですよね。
COMPASSという会社の神野さんという人が、
「60分授業のうち、子どもにとって意味のある時間は6分」
と書いているのを読み、極論かもしれないけれど、そんなぁとは…。
彼は、開発したタブレット教材で、1学期分の数学を32時間で終わらせ、
残りの時間は未来の勉強に充てるとか。
ティーチングはAI、心のケアやコーチングは教師…で事業展開しています。
今の私の最大の関心事は、
ITもしくはAIが効率性においてどれだけ(日本語)教育に貢献するのか。
そこでの教師の限界は何なのか。
それでも絶対に存在する、教師=人間だからこそできることは何なのか。
昨日の入学式。20の国と地域から来た140名余りの新入生たち。
つまり、生身の人間たち。
話がぶっ飛びましたが、実は全部つながっています。